株式会社 田中三次郎商店

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田中三次郎商店名物、
田中宏会長が語る
歴史秘話

昭和12年生まれの田中宏会長が
社員を聞き手に語る、
驚きあり笑いあり、
全田中三次郎商店が泣いた!
︙かもしれない社史の背景にある物語。
全4回でお届けします。

田中三次郎商店四代目 田中宏

1937年福岡県小郡市に生まれる。田中智一朗社長の父親で 現会長。現在の田中三次郎商店の骨格をつくった人物で、質、量共に経験が圧倒的な会社の歴史の生き字引。政財界の大物とも会ったばかりの外国人ともニコニコ交流し、軽快な話術と玄人はだしのマジックで相手を楽しませる達人。「仕事は人生を楽しく走るためのツール」と語る一方、商売においてはかなりの負けず嫌い。夫婦円満。忘れものは多め。

聞く人

  • メッシュテクノロジー事業部
    南嶋祐二

    2018年入社。コンビニもない田舎で川で遊び倒して育つ。存在した唯一の屋外スポーツ、野球に打ち込む少年時代、巡業にやって来たみちのくプロレスに魅了された。入社後すぐに会長から「君に(マジックで曲げた)スプーンはあげたっけ?」と言われて以来、ことある毎に「あげたっけ?」と聞かれ、「いただきました」が言えないまま現在までに6個所有。趣味は釣りとプロレス。

  • 水産・環境事業部
    水谷晴貴

    2020年入社。水産とは縁がなかったが、結婚を機に転勤のない仕事を探していたとき、目を引く社名と雰囲気、研究機関が取引先であることに興味を持って応募。高校から続けてきたアメフトは、妻の妊娠をきっかけに所属の社会人チームを引退。引退後は、自信のあった体力に衰えを感じている。生き物なら哺乳類系が好きで、個人としては魚にほぼ興味がない。趣味はアメフト。

エピソード2/
過渡期〜四代目、
波乱の社長デビュー

田中三次郎商店伝説の“賄賂事件”

南嶋エピソード1でも、驚きのお話があったようですが、若き日の会長の伝説として語り継がれている「賄賂事件」についてお聞きしたいです。

田中あぁ、あれですね。熊本のでんぷん業社の団体が業者を募って年に一度提出させる、大きな見積りがありましてね、ライバル会社に2年連続して取られていたんですよ。うちもずいぶん安く出したのにダメで、「おかしい、これは賄賂だ」と考えましてね。それではうちもと、入札の説明会のときに、千鳥饅頭の箱に一万円札を10枚入れた封筒を仕込んで、担当の係長に渡したんです。

水谷そ、それはあからさまですね…。

田中私は二十代前半でしたが、その頃から厚かましかったんでしょうね。負けず嫌いですしね。ところがですよ、しばらくしてから会議室に呼び出されまして、その係長から封筒を投げつけられました。「なんだこれは!」と、非常に憤慨されていました。その団体の幹部が7〜8人くらいですかね?いる前での出来事で、お札の入った封筒を拾ったまでは覚えているのですが、そのあとの記憶が飛ぶほどショックでした。これでもう、見積りを出すこともできなくなったと打ちひしがれましたよ。

南嶋確かまだ、学生だったんですよね?

田中そうです。ですからまだ正式に入社はしていなかったんですけどね、実質、社長みたいなことをしてました。そしてその若さから、この賄賂の件は結局不問に付されたんですね。というのも、憤慨されていた係長が、家で奥さんにことの次第を話したところ、「お父さん、そんな若い人なら、今回は許してあげたら?」と言ってくれたそうなんですね。私の人生を左右してしまうから、助けてあげたほうがいいと。

水谷すごい、救いの手ですね。

田中おかげで入札に参加できることになりまして、その後もずっと落札して、いいお客さんになったんです。

南嶋すっかりいいお話みたいになってますね(笑)。

水谷エピソード1でも、人に助けられてきたというお話があったようですが、本当にそういうことが多かったのですね。

倒産の危機にも、救いの神が現れて

田中いやぁ、不思議なものですね。まだまだありますよ。正式に入社したばかりのころでした。田中三次郎商店が倒産しかけていることがわかったんですよ。

水谷倒産ですか!

田中大学を出たばかりの私には、原因がわからなかったのですが、当時任せていた人間が悪かったのかもしれません。知ったときにはもう一年ももたない状況でした。母は売れるものは全部売ろうと、古い家…いまの本社ですね、あれも売るつもりだったんですよ。その上で、息子である私がなんとかするからと説明した相手に、そんなことしたら絶対にダメだと、「本丸を売り飛ばした会社を誰が信用するか!」と言われましてね。

南嶋いま建て替え中のあの本社も、人手に渡るところだったんですね…。

田中そうこうしているうちに、12〜13社の債権者が集まる場が持たれました。激しく責め立てられましたよ。そのとき、「古い会社を倒産させるのは目覚めが悪い。ここは息子に任せてみよう。払えなかったら私が払う」と言ってくれた人がいたんです。まさに救いの神ですね。

水谷ほかの会社の人も納得したのですか?

田中債権者の中でも力のある会社がそんなふうに言ったもので、場が収まったんですね。学生のころから集金などで取引先を回っていた私は、行った先々で可愛がられましてね、よくお客さんのところに泊まらせてもらっていましたが、この人のお宅もそのひとつでした。

南嶋接待していたのではなく、むしろされていた側だったというのがすごいですよね。

田中みんな、終戦後の貧しい時代を経験してましたからね、助け合いとか、人情みたいのがあったんでしょうね。それにしても、ここぞということきは必ず吉と出るんですよ。涙を流すほどの悔しさも、間一髪という事故も経験してるんですよ。ただ、ここぞのときは、自分の力以上のエネルギーが働いて助けてくれるんです。そんなことばかりです。昭和36年に私が社長になりまして、会社もなんとか持ち直すことができました。

南嶋会長は「持ってる」んでしょうね。

水谷絶対そうですよね。

三度のお見合いを経て、最良の伴侶を得る

南嶋学生時代から出入りしていたお取引先といえば、奥さまとのご縁もそうですよね?

田中長崎にある、家内の姉の家に商売で出入りしてたんですね。私は、学校の先生をしていた実の姉に紹介されて3回お見合いしたのですけどダメでね、そんな話を食事に呼ばれた際に家内の姉にしましたところ、「妹がいるよ」と。たまに見かけてはいたのですが、それが現在の家内の貞子(ていこ)でした。10ヶ月ほど交際して、「これは馬が合う」と感じました。一番感心したのは、時間に正確だったことですね。待ち合わせ時間のかなり前から待っていてくれましてね、「時間は信用です」と言ったのが印象的でした。

南嶋長崎でしたら、ちょっとした遠距離恋愛ですね。

田中そうですね。交際期間に、私は手紙を120通出しましたよ。

南嶋その頃から筆まめでいらしたのですね。

田中手紙を書くことは、母から「お客さんには、出先のホテルから葉書でもいいから書きなさい」と言われたのをきっかけに習慣づけました。1年間に2000通出していましたからね。

南嶋会長と出張に出かけると、まだ到着してもいない行き先の地名をあげて、「〇〇は晴れています」と、新幹線の中で書き始めますからね。

水谷あはは!雨だったらどうするんですか。

田中だいたい晴れてるもんなんですよ。

水谷そ、そんな…(笑)。ところで、120通出して、奥さまからは何通返ってきたのですか。

田中30通もらいました(笑)。

水谷ご結婚まではスムーズに?

田中それが家内の父親に反対されましてね。家内が「田中さんと結婚しないなら、一生しない」と、泣きながら言ったと聞きました。私は感激して、「この人に、ほかの人の十倍、二十倍、世界を見せてあげよう、私を選んでよかったと思ってもらおう」と心に決めました。

水谷ロマンティックですねぇ。

田中でもですね、件の「田中さんと結婚しないなら…」のセリフを家内が本当に言ったのかは、どうもわからないんですよ。本人は否定してますから(笑)。

水谷ええぇ…(笑)。

田中それはさておき、家内は人間として総合力に優れていると言うんですかね、賢い人です。第六感的に勘が働くところもあります。会社では経理を任せていましたが、重要な判断をして間違うことがないのですから、いい人と結婚したと思っていますよ。

水谷奥さまのご実家が水産関係だったことから、当社も進出することになるんですよね?

田中家内の実家は網元だったんですね。義兄が煮干用の網のいいのを探していたりということがなければ、田中三次郎商店が水産に目を向けることもなかったでしょうね。

水谷とにかく、ご縁ですね。

社員第一号。
「無理を言ったことしかない」相手が、いまの専務

南嶋奥さまもですが、佐々木専務とも、その頃からのご縁になるのではないですか。

田中私がこれから会社を立て直すぞ、というときに、働く先がないからなんとか雇ってもらえないかと彼の父親に頼み込まれまして。そんなことを言われても、そのとき会社は母と二人きりで、人を雇える状況でもないですしね、断りたかったのですが、あちらも引かなくて。ですから私になって最初の社員で、番頭さんですよ。

南嶋そこからいまに至るまで…。

田中とにかく安い給料しか払えなかったので、ある日「これでは家族が食べられないからもう少し…」と言われたんですけどね、「金がない」と答えるしかありませんでした。

水谷苦楽を共にしたんですね。

田中苦楽というか、無理ばかり言いましたね。無理を言ったことしかない。

水谷そ、そうなんですか。

田中覚えていないくらい、数限りなく言いたい放題、無理させ放題ですね。だから息子には、「(佐々木専務を)死ぬまで雇ってくれ」と言ってあります。それくらいのことはさせましたし、決めたことにはそれに向かってしっかり動いてくれて、ここを守ってくれましたからね。

南嶋社歴はとっくに半世紀以上ですもんね。佐々木専務もまた、会社の歴史ですよね。

田中彼は長身でハンサムで、若いころは「どっちが社長かわからん」って言われてました。そういうことは社長本人に向かって言っちゃダメですよねぇ(笑)。

水谷はははは!

歴史秘話を聞いてみて

  • 南嶋ずっと順風満帆にやってきた会社だと思っていました。お話をお聞きして、逆境もツキをも味方にして突き進んだ歴史があってこその田中三次郎商店だとわかりました。 会長は「ツキに恵まれている」と、そして日頃から、「ツキに恵まれるには、感謝の気持ちを持ちなさい」とおっしゃいます。「出会い」と「感謝」を大切にする田中三次郎商店の伝統を受け継いでいこうと思います。

  • 水谷現在だとコンプライアンス的にグレー?アウト?なお話がおもしろかったです。賄賂のエピソードなどは完全にアウトでしょうが、当時の会長の、強い思いと行動力によるもので、そのような思いと行動力がなければ、この会社は続いていなかったのではないでしょうか。運がいいとおっしゃる会長の、その運を引き寄せたのも、仕事に対する熱意と行動力ではないかと思いました。