田中三次郎商店名物、
田中宏会長が語る
歴史秘話
昭和12年生まれの田中宏会長が
社員を聞き手に語る、
驚きあり笑いあり、
全田中三次郎商店が泣いた!
︙かもしれない社史の背景にある物語。
全4回でお届けします。
田中三次郎商店四代目 田中宏
1937年福岡県小郡市に生まれる。田中智一朗社長の父親で 現会長。現在の田中三次郎商店の骨格をつくった人物で、質、量共に経験が圧倒的な会社の歴史の生き字引。政財界の大物とも会ったばかりの外国人ともニコニコ交流し、軽快な話術と玄人はだしのマジックで相手を楽しませる達人。「仕事は人生を楽しく走るためのツール」と語る一方、商売においてはかなりの負けず嫌い。夫婦円満。忘れものは多め。
聞く人
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メッシュテクノロジー事業部
堀江美奈子2016年入社。求職中に、「魔法使いがいる会社が事務員を探している」と言われたのが田中三次郎商店と出会うきっかけになった。担当業務は営業事務。「がまん強いタイプ」と自らを評し、それとのバランスなのか、モットーは「ほどよく頑張る」。趣味は近年巷でブームの御朱印集め。月に一度、ネイリストの友人からネイルを素敵にしてもらうことも楽しみのひとつ。
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メッシュテクノロジー事業部
田中慎一2018年入社。バリバリの理系。コスパ重視。「粘り強い一方で面倒くさがり」と自己分析。関西出身で、前職は外資系大手食品メーカーの営業だったが、転勤先の福岡で素敵な出会いがあり♡この地に残るべく転職先を探してたところ、ネットで田中三次郎商店を発見し応募した。入社後は製薬分野の新規開拓を担当。筋トレや格闘技系が好きで、趣味はブラジリアン柔術(まだ白帯)。
エピソード3/
発展期〜「一番」への執念
スイスと取引開始!大手に隠れて裏で売る
堀江この回が最もドラマティックとお聞きしているのですが。
田中どうしてですか?
堀江ライバルとの攻防がすごいと。
田中そうですかね?まぁ、普通ですけどね。
田中(慎)現在も当社と結びつきが深い、スイスのSEFAR(セファー)社の前身であるSILK THAL(シルクタール)社の副社長との出会いから、直接取引を始めることになって…。
田中世界一精密なつくりのメッシュで、品質が段違いだと当時から評判だったんですよ。あちらの副社長が海外出張の折に、福岡空港を経由してお会いする機会をつくってくれました。2時間もらったので、空港の貴賓室っていうのですかね、面談用に借りましてね。そのときに意気投合して、スイス本社への訪問が実現したんです。1970年代の後半ですね。スイスでは見るもの聞くものすべてが素晴らしかったです。スイス人のきっちりしたところも性に合いまして、特に経営者夫妻とはその後もずっとおつきあいが続きましたよ。この、スイスとのつながりが、田中三次郎商店の幸運のキーです。代理店にしてくれましたからね。
田中(慎)当時日本では、このスイスのメーカーの製品はほとんど流通がなくて、今回のお話に登場する業界の大手がドイツ製を扱っていらしたんですね。
田中そうです、あちらは仕入れに商社を挟んでいたこともあって、価格が高めだったんですね。私は「一番にならんとうまい飯は食えん」と母に育てられましたから、なんとしても抜きん出たかったですよ。しかし当時の田中三次郎商店の、販売店にすぎない立場では、仕掛けるに仕掛けられません。スイスから直接仕入れるようになったのは千載一遇のチャンスでした。これを、割安でこっそり裏で売り始めたんですね。
堀江ええっ、こっそり裏からですか?
田中相手は誰もが知る大企業のグループ会社で、たくさんの商品を独占的に扱っている業界大手ですから、うちのようなのが堂々とやったらあっというまに潰されますからね。
堀江でも、そんな綱渡りの取引きができたのですか?
田中「(裏で売買している話が)少しでも漏れたらもう売らないから」と、相手に固く口止めした上で売ってたんですよ。品質は折り紙つきで、どこも欲しがる製品でしたからね、少しでも安く手に入るとなればみんな応じてくれました。
田中(慎)でも田中三次郎商店も、その、もともと一手に販売していた大手さんとは当時からおつきあいがあったんですよね?
田中販売店としては、うちは大口でしたから、それはもう、浅からぬ縁ですよ。親しい幹部の方もいて、たびたび一緒にお食事してました。
田中(慎)ええっ!
田中飲んでますとね、「どうも最近、我々のあずかり知らぬところでスイスのメッシュが流通してるらしいんだ」なんて話が出るんですよ。そういうのを聞いては、ずっとしらばっくれてましたね。
堀江、田中(慎)えええぇぇぇ!
そろそろバレそうと思っていたころにバレた
田中うちが地方の小さい会社なんで、まさかと思っていたんでしょうね、疑われてませんでしたよ。私はといいますと、虎視眈々と、「いつか抜いてやろう」と。
堀江怖くなかったんですか?
田中怖くなかったですね。母も家内も、「よくそんなことができるね」と言ってましたけど、一番を取るためです。4年間は毎月のように、知らん顔して幹部と食事してました。
田中(慎)すごすぎます。僕には絶対無理です。
田中裏で売ってすごく儲かったんですけどね、4年後にバレたんですよ。ある会社にその大手の担当者が訪ねたとき、口止めが行き届いていない、事情を知らない現場の人が話を振られて、「最近、取引先の九州の人がよく来てますよ」なんて言ったらしく、聞いた相手はすぐにピンときたようです。
堀江うわぁ…。
田中毎月食事をご一緒していた方は、まぁ、烈火のごとく怒ってましたね。「お前はそれでも人間か!」って言われましたよ。
堀江そ、そのときはさすがに怖かったですか?
田中怖くないですね。そろそろ(バレる)だろうと思ってましたしね。
田中(慎)聞いているだけでドキドキします…。
田中次の日、その方が早速こちらに乗り込んで来てね、「覚悟しとけ」と言って帰って行かれました。本社でも大きな問題になったはずですが、結局、うちがスイスのメーカーとの関係を断つのであれば、従来通りに取引きを続けてもいいと、譲歩案みたいなものを出されたんですよ。私は腹をくくってましたから、「うちはそんななまっちょろい会社じゃないですよ。覚悟の上ですから、どんな手を打ってこられても、受けて立ちますよ」と答えましたね。
堀江それでどうなったんですか。
田中いろいろありまして取引先にも影響が出たものですから、私もヒートアップしたというのですかね、火がついてしまいました。
堀江火が…。とっくについていたものと思ってましたが、このときだったんですか。
敵対されるも、火に油を注ぎ続け
田中そこからは、お互いに弁護士を立てて、裁判にするしないの話ですよ。あちらには、業務妨害のかどで訴えると言われました。
堀江それには怖くなりましたか?
田中まったくなりませんね。徹底的にやるつもりでした。
田中(慎)徹底的に。
田中徹底的にやるつもりだったんですけどね、ギリギリのところで母が言ったんです。「押すばかりでは勝てん」と。あちらには比べものにならない資金力があるのですし、「押したり引いたりしないと勝てん」と。その言葉が私の気持ちを変えましたね。先方も、裁判沙汰になんてしたくなかったんですよ。でも私が決して折れないこともわかっていて、出口を探していたんだろうと思います。間に入ってくれた人がいたのですが、その人に私が、「あなたに言われたら仕方がない。引きますよ」と言ったら、ひどく喜ばれました。
田中(慎)その後の関係は大丈夫だったのですか。禍根みたいなものは残さなかったのでしょうか。
田中あちらは、しばらくは「田中三次郎商店憎し」でしたよ。私が火に油を注ぐようなこともしましたしね。
田中(慎)火に油を…。
田中どんどん燃やした方が勝ちだと思ってやってましたからね。結局、20年くらいは敵対関係のような状態が続きましたかね。
堀江どんどん燃やした方が…。
田中(慎)20年ということは、現社長が入社されたころも、ある程度は続いていたのですか?
田中息子には詳しくは話さずに、「大事なお取引先だから、挨拶に行ってきなさい」と敵方に送り込みましたね。
堀江とにかくいろいろ、大胆ですね。
メッシュでだけは、負けるわけにいかなかった
田中私にしてみれば、あくまで商売上のこと。苦労して育ててくれた母の教えの通り、一番になることに必死になったまでです。恨むだなんてとんでもない。出会いがあってこそいまの商売ができています。あちらには、いまでも心から感謝していますよ。毎月食事をご一緒していた幹部の方は、退職されるときに挨拶にいらしてくださったんですね。私はこう言いました。「あなたがいたからこれだけ頑張れた。感謝してもしきれない」とね。そしたら、「今日、ここに来るか来ないか迷ったけど、来てよかった」とおっしゃいました。それからずっと、お中元とお歳暮を贈り合って、お亡くなりになられてからも、奥様宛に続けています。
堀江あぁ、どこかでお互いに一目置いていらしたのですかね。
田中長いつきあいでしたからね。その方は、うちのことで社内で肩身の狭い思いもされたはずなんですよ。だから私も、彼に対しては特に、やっぱり思うところがありましたね。
田中(慎)いがみ合って終わらなくて少しホッとしました。
田中私も、ほかでもなく、メッシュ…網のことだったので、執着したところがあるんですね。こっちは中学から網を売っていたもので、これでは負けるわけにはいかないという思いが強かった。早くに父を亡くして、母と一緒にがむしゃらにやってきて、私には、篩(ふるい)絹の匂いまでが体に染み付いていますから。
田中(慎)そして実際、負けなかったんですね。
田中田中三次郎商店がスイスのメーカーの製品を日本で独占的に扱えるようになったのは、本当に大きなことでしたね。敵対した大手さんとも、その後取引をおこなうようになりました。
堀江当社のメッシュ事業にそんな歴史があったとは。
田中今回お話しした多くは、製粉用メッシュが主力だった時代のことです。1990年代に入ってから、だんだん工業用、水産用の需要が増えてきて、次第に主力に移行してますね。それまでにあった攻防ですね。
田中(慎)ここまでのドラマがあったとは。
堀江最初に、エピソード3のお話がドラマティックなのではとお聞きしたら、「普通」とおっしゃったのに。
田中私はさまざまな経験をしてますからね。それに、このときは一番になることに集中して、そこだけを見ていましたでしょ、だから特段大変だとは感じなかったんですよ。
田中(慎)いろいろ経験されていることは、とてもよくわかりました。
田中私はとかく商売に関しては、負けまいととことん向かっていくタイプですね。でも、あとを継いだ息子は、勝ち負けではなく、上手におつきあいしながらやっていってますね。そのほうがいいのではないですか?
堀江え、結局!?
歴史秘話を聞いてみて
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堀江会長のぶれない心と強さ、人との出会いや閃きが、いまの田中三次郎商店の基盤になっているのだと思いました。特に強さに関しては、すごすぎてドラマのよう(笑)。会長はまた、“つながり”をとても大切にされています。たくさんの苦労を経験されても、その“つながり”に助けられてきたのだと感じました。会長が築いてきたものへの思いを忘れずに仕事をしていきたいです。
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田中(慎)日曜夜9時のドラマみたいな展開で胸が熱くなりました。私も新しい分野を開拓しようとしているため、大変さがわかります。会長の大胆さ、肝っ玉の強さ、勝負強さ、勘の良さは真似できませんが、「商売は人との出会いあってこそ」というのは、スケールは違えど自分の過去を振り返っても、正にその通りだと実感できました。意識しながら仕事をしていきたいと思います。