田中三次郎商店名物、
田中宏会長が語る
歴史秘話
昭和12年生まれの田中宏会長が
社員を聞き手に語る、
驚きあり笑いあり、
全田中三次郎商店が泣いた!
︙かもしれない社史の背景にある物語。
全4回でお届けします。
田中三次郎商店四代目 田中宏
1937年福岡県小郡市に生まれる。田中智一朗社長の父親で 現会長。現在の田中三次郎商店の骨格をつくった人物で、質、量共に経験が圧倒的な会社の歴史の生き字引。政財界の大物とも会ったばかりの外国人ともニコニコ交流し、軽快な話術と玄人はだしのマジックで相手を楽しませる達人。「仕事は人生を楽しく走るためのツール」と語る一方、商売においてはかなりの負けず嫌い。夫婦円満。忘れものは多め。
聞く人
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生物モニタリング事業部
渡辺友樹2015年入社。北海道出身の生き物好き。大学院生のときに教授から「九州に君が好きそうな、ちょっと変わった会社がある」と言われ田中三次郎商店を知る。いったん別の会社に就職するが、「研究に役立つ商品をつくりたい」「海に関わる仕事がしたい」と転職を考える際に思い出した。大学や研究機関からのマニアックな問い合わせに、日々喜びを感じている。趣味は魚突き。
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水産・環境事業部
平湯千里2021年入社。小学生のころからの女子校育ちだが、水産の道に進んだ大学からは男性一色の世界で過ごし、「ノリが男子っぽい」と自己分析。田中三次郎商店には、「船に乗らずして水産に関わることのできる福岡の会社」を探して行き着いた。社内のアットホームな雰囲気を、「痛いぐらいにあたたかすぎ!」と語る。趣味はゲームと魚釣り。
エピソード1/
黎明期〜四代目就任以前
戦争末期、三代目である父親を小2で亡くして
渡辺当社は現社長で五代目、会長は四代目ですよね。それ以前のことを教えてください。
田中始まりは安政四年に遡ります。当時すでに製粉用の篩(ふるい)絹※を扱っていました。田中三次郎は二代目です。雑貨屋のような商いで、篩絹のほか、鮮魚なんかも売っていたようです。親戚筋の、跡取りがいない初代の平田さんに土地を譲ってもらって、隣家から移ってきたのが明治25年ごろですね。三代目にあたる私の父の田中直記は、その家に生まれた7人きょうだいのひとりです。
渡辺そうか、雑貨屋だから“田中三次郎商店”という屋号だったんですね。
田中そうそう。雑貨屋といっても、当初から行商もしていたようです。うちの父もそうでした。商売熱心でしたね。
渡辺お父さまの直記さんは商売人らしい方だったんですか。
田中そうですね。父は戦争末期の、私が小学校2年生のときに亡くなっていますが、風邪を引いて高熱があって、こんな状態で行ったら死ぬと言われたのに、「商売で死ぬなら本望」と、岐阜まで行商に出かけました。結局、福岡に戻って療養した後に亡くなりました。競争が激しかったのもありますが、商魂たくましい人だったんですね。
渡辺そうだったんですね。
田中父が亡くなったときは、頭をカナヅチで殴られたような気持ちになりました。私は4人きょうだいの中で唯一の男でしたから、当時何かと特別扱いされて育ちましたけどね、商売については父に習ったことはありませんでした。それでも商魂たくましさは受け継ぎましたね。
平湯戦争末期にお亡くなりになったんですね。会長も戦争を経験されていますよね。ここ小郡も激しい空襲にあったと聞いています。
田中東洋一の大刀洗飛行場が近くて、小郡市内にも関連の施設がありましたから、敵機のB29が、空が真っ黒になるほど飛んできましたよ。田んぼだとよく見えて危ないからと、林の中を抜けて通学するように学校で教わりました。恐ろしかったですね。逃げ惑う夢はいまでも見ます。田んぼの中の土管で、息ができないところで目が覚めるんです。
目の細かいふるいに使用する絹の布。
「あんたは私の命だから」。長男として特別扱いされた
平湯お母さまもご苦労されましたね。
田中42歳でひとりになって、会社を切り盛りしなくてはなりませんでしたからね。九州のお客さん回りでは、私を連れて歩きました。お客さんのところに行くのでと、高級な革靴を買ってもらいました。洒落た靴でしたね。一方、就学前だということにして、電車代はちょろまかしてましたね。
渡辺あはは。ちょろまかして。
平湯でも跡取りとして、大事に育てられたんですよね。
田中このころ、母とのことで鮮烈に記憶している出来事があります。母は小学校の先生をしていましたが、結婚後しばらくして、うちの会社で経理を受け持つようになったんですね。父が亡くなった翌年、小学校の悪い上級生に命じられて、私たち下級生は、最初はスイカ泥棒などを働いていました。次第に、金を持って来いと言われだして、友だちは賽銭泥棒をして持って行ったものですが、うちは当時としては比較的裕福な家でしたので、母の箪笥からお札を抜いて渡していました。多いときは十円札です。いまでいう二千数百円くらいですかね、子どもには大金です。そういうことが地域や学校に漏れ伝わって問題になって、学校で持ち物検査をするようになりました。私は、学校ではバレませんでしたが、母には見つかったんですね。「宏、下りてきなさい!」と一階から声がしたとき、あぁ、バレた、叱られると思いました。母の元に行くと、母はしばし黙って、それから私が隠していたお札を折って、胸ポケットに入れてくれました。あのときこう言ったんですね。「あんたは私の命だから、こういうことはしないでほしい」と。忘れられません。母はその前からきっと、私が箪笥からお金を盗んでいると知っていたと思います。私はそれから、同じようなことを一切しませんでした。子どもを置いて出かけた行商先でも、「元気か、痩せてないか」と、私のことばかり気にかけていたと、姉が言っていましたね。
渡辺なんとも胸にくるお話ですね。
田中そういう時代だったからでしょう、みんな強かったんですよ。母も強かったですね。
中学からは、無免許運転のバイクで配達に
平湯中学校のときには、さらに家業を手伝うようになっていたのだとか。
田中配達ですね。学校に行く前に自転車で行くんですよ。それが嫌でねぇ。まだ暗い時間でしたしね。大人になって子どもができたら、こんなことは絶対にさせないぞと思ってましたよ。
渡辺学校に行く前の時間というのは確かにハードですね…。何を配達したんですか。
田中だいたい篩絹ですね。日本製粉の久留米工場や、日清製粉の鳥栖工場に納めてました。ほかに、近隣の農家に鶏の飼料も持って行って売りました。素麺も売りましたね。まだ物々交換も盛んなころです。農家に素麺を持参して、小麦をもらって帰り、それをまとめて製麺会社に引き取ってもらう。こんなふうなことを、高校のときもやってました。
渡辺そのころ会社は何人くらいで?
田中4〜5人でやっていたと思います。
平湯運ぶものが全部重そうですが、自転車で、ですよね。
田中じきにアメリカ製のオートバイになりました。
平湯中学生で?
田中時効だと思うので言いますけど、無免許ですね。
平湯大丈夫だったんですか?
田中明らかに中学生という体格でしたけど、これも時代ですね、警察もなんとなく許してくれてました。田んぼに落ちたことはありますよ。
渡辺全部、ドラマみたいですね…。
田中中学のころの思い出では、通っていた諏訪中学校の卒業生が、講演をしに学校に来たことがありました。世界中を商船で巡っている人で、これがずっと心に残っています。特に、お話に出てきた、船上で満天の星を見上げるという描写には想像が広がりましてね。「世界は広いです。世界を相手にするような仕事をする人になってください」という言葉に、目の前が開けるような気持ちになりました。それからですね、私が海外に興味を持つようになったのは。
渡辺会長は海外出張もたくさんされてきましたが、もしかしてそのときの影響が。
田中その通りですね。あのときあの先輩のお話を聞いていなかったら、こうはなっていなかったのではないですかね。
渡辺中高と、ずいぶん家業のお手伝いをされていますが、それはやっぱり、継ぐ準備というか。
田中私の通った久留米大付設高校というのは、久留米大の医学部を目指す前提で入る人が多くて、母は私もそうなることを少し期待していたようです。私はというと、だんだん勉強より商売が面白いと感じるようになってきたころでした。継ぐことも当たり前に意識してはいましたね。取引先の社長さんに、「高校卒業したら進学するのか」と聞かれて、「働く」と答えましたよ。
食べていけ、泊まっていけ、車持っていけ。出会いに育てられ
渡辺結局進学されたんですよね?
田中そうですね。さほどの出来ではなかった私が九州大学を受験しまして。見事に不合格になって、やはり福岡市内の、西南学院大学の商学部に通うことになります。九大生を見ると悔しくはなりましたけどね、西南大では人生を変えるような素晴らしい出会いもあって、結果はオーライ以上となりましたよ。
平湯人生を変えるような。
田中中学校の先輩の講演を聞いて以来、海外への興味が強かった私ですが、西南大でアメリカ人の教授と親しくなりました。ホートン先生という方で、ご自宅にお邪魔して、ご家族とも仲良くなりましてね、それは親切にしてもらいました。洗濯部屋に私の部屋をつくってくれたんですよ。人種の違う者にこれほど親切にできるのかと感動して、私もそういう人になりたいと思ったんですね。外国人に抵抗がなくなって、後の人生に大きな影響を与えました。
渡辺ホートン先生は素晴らしい方だったのだと思いますが、会長には日頃から、ほかにもいろんな方からよくしてもらったお話をお聞きしている気がします。
田中そうですね。ありがたい、いい人生ですね。大学のときにはもう営業回りも多くしてましたし、いろんな取引先に顔を出すようになっていましたが、あっちこっちのお得意さんから可愛がってもらいましたね。ごはん食べていけ、泊まっていけと言われて、しょっちゅう上がり込んでましたから。たくさんの人のお世話になりました。
平湯すごいですね…。
田中その中に、八女市の製粉会社の社長さんがいましてね。私に、いずれ後を継いで社長になるのはわかっているのだから、自社で売っている製粉用の篩網などの商品が、どのように使われているのかちゃんと見ておいたほうがいい、その人の会社でアルバイトをしてみたらいいと言ってくれました。それで夏休みにアルバイトをすることになります。これがずいぶん勉強になりました。
平湯本当に、いろんな経験をされてますね。
田中そうですよ。このアルバイトでは、私が腰からぶら下げていた手ぬぐいが、工場の機械に巻き込まれて体が宙吊りになりかかりまして、危険な目にあわせたと、気の毒なことに現場の部長さんが社長さんに怒られました。それでアルバイトは終わりになったのですが、このとき社長さんの指示で、給料のほかに車をもらいましてね。
平湯え?車…?
渡辺手土産に、ですか!?
田中「余ってる車、あれを田中君に差し上げなさい!」って指示してましたね。余っている様子もなかったのに。あのときもらった、コロナというトヨタ車にはずいぶん乗りましたよ。
平湯ええ…、びっくりです。
歴史秘話を聞いてみて
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渡辺会長は人生楽しんでいるなぁと強く感じます。エピソードの中で、失敗を悔いることはあってもその後に必ずポジティブな言葉が出てきます。いい人と出会えた、かわいがってもらえたというお話が多いのは、きっとこの姿勢と笑顔に秘訣があるのだろうと思います。つらい思いをしても、その後挽回し、周りの支えに感謝し、活力に変えていく。それは三次郎商店が続いた秘訣でもあるのかなと思いました。
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平湯田中三次郎商店という会社名からして、そこらの大手企業よりもかなり凝った歴史がありそうだなあとは思っていましたが、その通りでした。お話をお聞きして一番感じたのは人間関係の大切さです。会長のお人柄だとは思いますが、お若いころにたくさんのことを経験され、その度に誰かしらに支えてもらっていることを聞いて、人とのご縁は大切にしなくてはいけないと思いました。