株式会社 田中三次郎商店

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特集⑰

石臼で挽く地元の小麦で、
“ゆらぎ”をも味わう豊かさを。
木村昌之さんのパン道
(前編)

長野県上田市に、知る人ぞ知るパン職人、木村昌之さんという方がいます。都内の複数の有名店を経て、現在は卸専門の「木村製パン」のオーナーで、プロの間でも評判のパンを焼いています。その木村さんがプロデュースされたポワン エ リーニュ東京ミッドタウン八重洲店に田中三次郎商店から石臼が納品されたということで、担当の神永剛士さんより本記事の取材依頼がありました。取材に先立ち、お名前や「木村製パン」で検索するも、直近のまとまった情報はヒットせず、ご活動の全容が掴めなかった木村さん、お聞きしたところ、普段、取材はほとんどお受けにならないそう。貴重な記事になると思われます。しかも非常におもしろいです!

前編
「若き日は、
猛進し、燃え尽きた。
紆余曲折を経て、いま」

後編はこちら

ファミマで買った服に、
ボサボサの髪の毛で、
いいんですかね。

登場人物:
木村製パン
木村昌之さん

なりたかった
「あの背中」に導かれ、
パンの道に

リッチなパン、伝統的なパン、前衛的なパン。さまざまな材料と製法でさまざまなタイプのパンをつくってきたという木村さんがたどり着いたのは、信頼できる農家さんの小麦を石臼で挽いて、こだわりの塩と、汲んでは使う湧き水という極めてシンプルな材料により、たったひとつの製法でつくるパンだといいます。長野県上田市に移住し、「地方でつくるロスが出ないパン」を標榜して、土曜日の直売を除きすべて受注生産というパン屋さんを営んでいます。「パン好きの方って、主だったパン屋さんを、だいたい“○系”と分類することができると思うんです。僕のは多分、何系でもないと思います」と、おっしゃる木村さん、ご自分のつくり方を、「他力本願なんですよ」と笑います。技術ありきのパンづくりをしていたころもあったそうですが、現在は、小麦農家さんから、(気候など諸条件によって)毎年違うものが届いても、それに応じてパンにするそうです。やはり自然由来の塩も、また、湧き水も、味わいが常に一定ではありません。それらの“ゆらぎ”を受け入れて、ゆらぎのあるパンをつくるのが木村流なのだそうです。

1978年に長野県で生まれた木村さん、お父さまの転勤に伴い国内を転々とする中で、それは埼玉時代、中学二年生のときでした。土砂降りに見舞われ、一緒にいたお友だちの叔父さまのパン屋さんに避難。「寒いから中であったまりな」と言って、お店のロールケーキを切って出してくれたその叔父さまの背中にビビッときたそうです。「こういう背中の大人になりたい!」と。サラリーマン家庭で育った木村さんでしたが、それ以前から職人になりたいと思っていたこともあり、そこからひたすら、パン屋さんになることだけを考えるようになりました。「パンが好きというのはその後からで、とにかくあの背中になりたかったんです」。

都心に複数店舗を構え、人気を博すPOINT ET LIGNE(ポワン エ リーニュ)。
木村さんは、ハード系のパンを扱う東京ミッドタウン八重洲店をオープンする際
そのプロデュースを手掛け、通年で関わってきた。インタビューは同店にて。

スイッチOFFに
なった時期も

高校生のときにスーパーの中のパン屋さんでアルバイトを始め、卒業後は製菓・製パンの専門学校に通います。来る日も来る日も新聞配達で学費を稼ぎながらの学生生活は厳しいものでした。「そのころから早起き人生。ずっと2時半起床」と笑う木村さんは、ブルーハーツを聴きながらやり抜き、卒業時には学内の最優秀賞を受賞。優等生かと思いきや「やりなさいと言われたことは何もやらないひどい学生でした」。ともあれ専門学校を卒業した木村さん、何度も断られながら、今度は「何でもやります!やらせてください」と押しかける形で、都内の有名パン店で働き始めます。パンに触らせてもらえず掃除ばかりしていたので「ダスキン」と呼ばれました。それでも貪欲に吸収して著しい成長を見せた木村さん、しかし文字通りのハングリーで、ろくに栄養も摂らずに働き詰めだった日々が災いして痩せていき、心身の限界を迎えます。毎日、いつのまにか食いしばっていた歯がすり減っていたくらい頑張って、壊れてしまった。まだ20歳を過ぎたばかりのころ。

「近くの小学校の児童が石臼で小麦を挽くところを目にできたらいいと思った」と、
外から見えるよう設置することを提案したという木村さん。
ポワン エ リーニュ東京ミッドタウン八重洲店には、
この石臼で製粉された粉で焼く“ゆらぎ”のあるパンが並ぶ。

木村さんは中学高校とサッカー少年でした。「本番に弱いタイプ」と言われ、人一倍練習しても万年補欠で、後輩に追い越されては悔しい思いをしました。そんな経験もあって、「仕事では!」という思いが強くなったのかもしれないと振り返ります。もうひとつ、「錆びつくんなら擦り切れろ!」とおっしゃったというお母さまの影響もあったかなと。お母さま、ロックです。

燃え尽きて、いったんパン作りから離れ、土木作業員などをしていた木村さんでしたが、やがてまたパンの世界に戻ります。木村さんにはこのときだけではなく、何度かパンを手放したいと思った時期が訪れたといいます。体にも環境にも無理のない食や生活のあり方などを追求していく中で、「日本にはこれほど素晴らしい発酵食品の文化や伝統食があるのに、なんで外来のパンなんてやってるんだ!」と、自分のやってきたことを否定した時期もあると。

新聞配達では、
若いからと一番きついエリアを
あてがわれました。

「親が子どもに
食べさせたいパン」を、
暮らしの中で

紆余曲折もあった木村さんに、現在感じているパンづくりの魅力を尋ねると、「受け取る人が喜んでくれるんですよね。その様子なり、もらえる感想なり、一人ひとりとのやり取りが嬉しいんです。それから、3人子どもがいるんですけどね、子どもたちが憧れて、手伝いたがるんですよ。そういうのは幸せだなぁって思います」と目を細めました。

お子さんが生まれてからは、「親が子どもに食べさせたいパン」を念頭に、健康視点の理論も押さえた上での材料選びや製法を試行錯誤するように。国産、オーガニックと、材料を切り替えていきました。さらには、「一年半、外で仕事をしない時期があったんですよ。振り返るとその時間が重要でした。それまでは家庭でパンがどんなふうに食べられているか、実のところよくわかってなかったんですよね。主夫のように暮らしてはじめて、どんなときにどんなパンが食べたいのか、季節や生活のシーンに応じて自然と感じられるようになりました」。四半世紀以上にわたる職人生活は、ときに自己否定もありつつ、思考を繰り返し更新しながら歩んでこられたのですね。

小学校の低学年のときから、家族が喜ぶのが嬉しくて、たびたび朝食をつくったという。
食べる人に喜ばれることを喜びにされている点で、いまも変わっていない。

「早くパンブームを
終わらせたい」

木村さんのところで研修したいという人は後を絶たないといいます。すべてお断りしてきたそうですが、最近になり、少し気持ちに変化があったようです。「僕のやってきたことをわかってくれる人っているんだなぁって。少し話をしてみようかなと思うようになりました。そういう人って、真似をしようとしてるわけではないんです。技術的なことや、レシピ、材料の仕入れ方とかを、ノウハウ的に知って取り入れたくてやって来るわけではない」。逆に、思うところも。「時代のせいか、とかく最短距離で習得したいという人って多くないですか?でも、そうじゃないんですよ。僕はダメだった時期が結構あったし、失敗もした。さっき言ったように、無職だったことも、あと農家でボランティアみたいなことをしていたこともあって、経験として生きている。パンと関係のない、異業種の人と話をするのも好き。狙ってやるわけではないのですが、いろいろ遠回り的なこともしながら考えてやってきたことの結果がいまの自分だし、いまの価値観あっていまのパンというのですかね」。

ほかにもモヤモヤしていることがあるそうです。聞けば「本音を言うと、早くパンブームを終わらせたいんですよ」と、少し力を込める。「地に足がつかないブームみたいなのが続くうちは、僕がそうあってほしいと願うパンの文化は育ちづらいと思うんですね」と。長野で地元の在来種の小麦からできるパンを焼く木村さん、「日本全国のパン屋さんが、土地土地の材料でつくったらいいと思います。地元調達がむずかしい東京でなら、出身地の地粉でもいい。細々とかもしれませんが情熱を持って、各地で個性ある小麦を育てるつくり手さんがいるんです。それに、パンって自然のものでつくるにもかかわらず、均質であることが当たり前っていうのもどうなんだろうと。ワインだってコーヒーだって、生産地やその年による違いがあって、それを楽しんでもいますよね。うちのパンは、“ゆらぎ”があるとお話ししましたが、言ってみれば不安定なんです。でも、僕自身、答えがはっきりしていないパンが好きです。その年によって、時期によって、その日の温度湿度によって、全部味わいに違いがある、そういうのがいいと思うんです」。確かに、そのほうが豊かである気がしてきました。あたらしい気づきです。後編では、石臼を使う理由について、農家さんとのつながりについて、木村さんのお話が続きます。

SNS映えがもてはやされがちですが、
選ぶときより食べているときに
テンションが上がるパンがいいと
思っています。

飾らないお人柄がにじむ木村さん。
語る言葉は地に足がついていて説得力がある。