株式会社 田中三次郎商店

検索

SPECIAL

特集⑱

生粋の大工一家に生まれて。
「歴史ある建物を守り、
伝統の大工仕事を守りたい」

「百年後も愛される」というのが田中三次郎商店の基本指針。その象徴として次の100年にも残したいと、2022年夏現在改修中なのが築約150年の本社です。引き続き使える材を活かしながら、基礎を打ち直し、屋根は葺き直す。諸々の作業は、一から建てるよりもはるかに先が読めない大仕事です。第一、こうした古い建物を知り、扱える大工さんはそうはいません。特集Vol.18では、それができる数少ない大工の棟梁、地元福岡、山田建築の山田嘉木さんをご紹介します。田中三次郎商店の田中家とは、建築士だった田中智一朗現社長の姉と生前仕事を共にされていたご縁。職人にイメージされがちな頑固で気難しい印象はなく、ほがらかにお話しくださいました。

この道に進むことが
できて良かったと、
いまは思います。

登場人物:
山田建築 代表
山田嘉木さん

「ぶっ壊し」を免れた
本社の大改修

山田嘉木さん、田中社長一家もそう呼ぶように、ここでは「山田棟梁」でまいりたいと思います。お祖父さまもお父さまも大工さん。子どものころからお祖父さまによって、お父さまが働く現場を見に「連れ回され」、「自分の親がしていることだから興味はありましたが、自分の意志というより、継ぐレールが当たり前に敷かれてました」と振り返ります。中学や高校の時分には若干の反発も。しかし「いまは良かったと思ってます」。外部の工務店で一年の修行を終えたのち、1995年にお父さまに師事して以来この道30年弱。2019年に独立されています。

昔ながらの道具を使いこなし、職人らしい仕事をする大工さんが少なくなっている現在、山田棟梁のお父さまは、「九州では山田さん」と言われるほどに伝統工法に通じた方で、「現代の名工」として国に表彰されています。山田棟梁もその技を継ぎ、文化財の建て替えや修繕の際には声がかかるように。田中三次郎商店の本社もその一つです。子ども時代、田中智一朗現社長は、この歴史ある…智一朗少年の目には古いばかりに映った社屋を忌々しく感じており、「早くぶっ壊して10階建のビルにしたい」と、常々思っていたそうですよ。成長するにつれ心変わりしたのは幸いでした。会社にとっても地域にとっても貴重なこの建物、昔の大工さんが素晴らしい仕事を施したおかげで堅牢なつくりでしたが、さすがの歳月を重ね、地震対策も兼ねての大改修が必要になり、山田棟梁に依頼をしたということです。

古い建物に
秘められた驚きを、
楽しみながら

ある種の手術と同じで、「開けてみないとわからない」のが古い建物。見えないところが傷んでいて、想定外の手間や時間がかかることもしばしば。大変ですが、壊した壁から文献が出てくるなどのサプライズもあります。なんとここからも発見されました!「活版印刷や手書きの文書で、読める状態で出てくることも多いんですよ。(田中宏)会長さんは歴史好きでいらっしゃるので、えらい興奮されてました」。話によれば、こうした文書は、隠したり、後世にメッセージを残すような意図ではなく、単に補強材的目的で一緒に埋め込まれたのではないかということで、昔の現場の、ちょっとした慣習だったのかもしれません。それを含めて面白い!

「本社」としてはいるがシンボル的意味合いが強く、完成後も事務所機能は持たない。
海外の取引先のお客さまなどに、気兼ねなく滞在してほしいと考え、ゲストルームを新設する。

毎回驚きがあるのが古い建物ですが、田中三次郎商店本社もまた、コンピューターなどない時代、データ分析も精緻な計算もなしにどうやってこんな組み方ができたのだろうと、山田棟梁も舌を巻く仕事がなされている。年月が深い飴色にした天井部分を見上げれば、構造材として一本の木を使っている箇所もあれば、複数を組み合わせている箇所もある。かかる力を分散させるよう計算したあとが見られる。「いまであれば、直線的で均質な材料が揃うし、予めシミュレーションもしやすいけど、こういうことができる大工さんは、そうそういませんね」。感心しながらも、いかにして昔の材料を活かし、いかにして現代に合う間取りを実現させるかにもまた、高度な知識と技術が必要で、ここは現代の匠の腕の見せどころ。「価値ある建物を未来に残したい」との思いが意欲を後押しします。

山田棟梁がこの改修に思い入れる理由は実はもうひとつ。建築士だった、亡き田中社長の姉と共に仕事をした時期が、山田棟梁にはありました。深く親交し、「以来田中家には、なにかあったら山田さん、と言っていただいています。プレッシャーもありますが、それ以上にありがたく思っています」。そう意気に感じていらっしゃるご様子でした。

田中家の信頼に応える
仕事をしたいです。

世界に誇れる技を、
未来に残したい

三代続く大工さん一家。弟さん二人も、同じ道を進んでいます。長男で継ぐ前提だった山田棟梁をお膝元に残し、次男は京都で数寄屋大工を、三男はハウスメーカーで現場監督をされているそう。数寄屋大工の修行で「京都に出された」という経緯に興味を持ち尋ねると、「父には、数寄屋建築…京都への憧れっていうんですかね?そういうのがあったんですよ。それで弟が送り込まれちゃって(笑)」と。弟さんは修行を経て、お茶室などで名前の挙がる存在になってきたのだとか。そんな弟さんを、「いやぁ、大変だったと思います。同じ大工でもぜんぜん勝手の違う世界に放り込まれて、よくやり通したと思います。誇らしいです」と、心から評する山田棟梁も素敵です。生粋の大工さん一家、運命でしょうか、なんと偶然にも山田棟梁の奥さまのご実家も同業者。現在大学生の息子さんもまた、同じ道に進もうとしているというのですから、四代続くことも決定ですね。それについてはちょっと嬉しそうでした。

いわゆる門前の小僧だった山田棟梁も、しかし若いころはたくさん失敗をしたそうです。「もう、辞めたいなんてしょっちゅう思ってましたよ」と笑います。そして「いまでも足りているとは思っていませんが、僕なりには努力して、得られた知識があります。今度はそれを伝えていきたいんです」と、後進につなぐことも、古い建物を手掛ける仕事に力を入れたい理由だと教えてくれました。日本の伝統技術を守ることになるからです。若い大工さんにとってこのような現場は即ち、貴重な実践の場なのです。山田棟梁曰く「いまはプラモデルみたいに出来上がる家が多い」。そこでは昔ながらの大工道具の出番もありません。プラモデル的建築が主流になると、最も欠かせない道具であったはずの、鉋(かんな)や鑿(のみ)をつくる鍛冶屋さんも減ってくる。「日本ならではの道具です。つくる鍛冶屋さんは本当にすごくて、世界に誇る技術です。いいつくり手による道具の違いは歴然。本当にものづくりが好きな人間なら、そんな道具を使いたいはずですし、工場で加工されたものを組み立てるだけになったことで、現場の大工の楽しみが減ったとも言えます」と、声に熱がこもります。鍛冶屋さんしかり、業界全体の後継者不足を憂う山田棟梁は、若い人たちが大工仕事に触れる機会をつくる活動にも取り組んでいます。

日本には材として非常に優れた木も揃っています。「青森のヒバ、木曽のヒノキ、中国地方のマツもいい。同じスギでも、秋田杉、吉野杉、土佐杉などさまざまで、硬さや油気の多い少ないなど、それぞれに異なる特徴があります。材によって、目が詰まっているから耐久性に富んでいるとか、木目がきれいだから化粧材に向いているとか、知らないと提案もできません。こういうのも継承していきたいです。うちの父は木が好きなあまり、高い材を買い付けては使って、儲けにならないと母に怒られてましたね(笑)。父は木と会話するんですよ。結果、仕事に狂いがないという…」。

自らを「父と比べると月とスッポン」とまでおっしゃる山田棟梁ではありますが、令和3年度の福岡県優秀技能者として、卓越した技能を認められています。お父さまにすれば、一人前以上になった息子さんは自慢に違いないと想像されます。そう思って、水を向けてみました。「父にですか?なかなか褒めてはもらえませんね(笑)。勝っているところ?そうですね…、お客さんと接するのは、僕の方がちょっと得意ですかね。うーん、それもどうかな(笑)。さんざん衝突もしましたけどね、偉大ですねぇ、やっぱり」

かんな削り体験は、
子どもたちや
海外の方にも人気です。

山田棟梁は、「削ろう会
(大工さんなど木を扱う職人、工具をつくる鍛冶職人や、
手道具に興味のあるアマチュアが楽しく技術交流をする全国組織)
に携わるなどし、広くこの仕事の魅力を伝えている。

取材を終えて

後から気づいたのですが、お名前の「嘉木(よしき)」、“嘉”には、立派なとか、素晴らしいという意味がありますよね。お名前にも、この仕事への愛を込められた(?)山田棟梁。「レールが敷かれていた」そうですが、だから一足飛びに腕前が上がるわけでもなし。苦労話らしきことはお話しされませんでしたけど、どれほどの鍛錬を積まれたことか。田中三次郎商店の本社改修は、代々続く家業という共通点があり、田中一家との浅からぬご縁もあり、これ以上ない方が手がけていらっしゃいました。この道30年、「自分はまだまだ」と終始謙虚で、かつほがらかで、田中会長宅でおいしいお茶をご一緒しながら、「これは信頼されるはずだ」と、深くうなずいた次第です。(取材・文:みつばち社小林奈穂子)