株式会社 田中三次郎商店

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特集⑭

海と川を行き来するスズキ。
京大の研究者たちの、
釣りにはじまる生態調査
(後編)

京都北部を流れる由良川に集ったのは、京都大学フィールド科学教育研究センターの研究者を中心とするチーム。それがどうして、まるで釣りのセミプロ集団でした。釣り好きが高じてこの道に進んだという方が少なくないというのです。フィールド科学教育研究センターは、森から海につながる生態系を幅広く研究する、この分野で日本を牽引する機関。日本の頭脳とも言える研究者のみなさんを夢中にさせたのですから、本題とはズレますが、「釣りってすごい」と、釣りそのものに尊ささえ感じてしまいました。この度はスズキの調査のため、川に遡上してきた個体を捕まえて発信機をつけるなどの研究活動に同行。どんな生き物もミラクルを秘めていて、スズキもまたそうであります。ミラクルをガイドしてくださったのは、本プロジェクトのリーダーであり、フィールド科学教育研究センターの元センター長、京大名誉教授の山下洋先生です。この大先生についてのお話も、後編でしっかりお届けします。

後編
「『森里海連環学』を牽引、
日本を代表する研究者の原点は、
釣りだった」

前編はこちら

通説にも、
科学のお墨つきが
必要です。

登場人物:
京都大学
フィールド科学教育研究センター
名誉教授・元センター長
山下洋さん

半ズボンで現れた大先生

山下先生の研究者としてのスタートは、1983年に東京大学農学系研究科博士課程を修了、農学博士を取得し、東京大学海洋研究所助手に採用されたときでした。その後、水産庁での沿岸資源の研究を経て、京大フィールド科学教育研究センターの教授となり、2011年から副センター長、2017年から2019年までセンター長を務めていらっしゃいます。受賞経験も多く、輝かしい研究者人生を送られた、日本に一握りの選ばれし人物であろうと思います。それだけに、最初にそのお姿を目にしたとき、釣竿を手に、半ズボンにキャップをかぶった山下先生に、少々拍子抜けしたと言いましょうか。若者の輪に入り、その若者に釣りに関する教えを乞うたかと思えば、施設内で院生が研究用に魚を解剖するところをたまたま通りがかり、助言を求められれば気さくに応じるばかりか助手のように顕微鏡の準備を始めたりと、イメージしていた大先生とはずいぶん趣が異なりました。そもそもご本人は、「“大先生”は勘弁してください」とおっしゃっているのですが、僭越ながら敬愛の念を込めてそう呼ばせていただきます。

山下先生は、長く沿岸域の環境と魚類の研究に従事してきました。フィールド科学教育研究センターが提唱する『森里海連環学(もりさとうみれんかんがく)』を牽引し、森林や里における人間活動が、河川と沿岸域の生き物にどのような影響をおよぼすかの解明に取り組まれています。「(研究の対象とする)森から海までって、つまり国土の全部なんですよ」と山下先生、川と海を行き来している魚がわかりやすく象徴的ということが、スズキの調査研究に乗り出した大きな理由のひとつです。スズキのような魚が川に遡上する理由を調べることで、河川が沿岸魚類に対して果たしている役割を明らかにする手がかりとしたいと。

助言を求める学生に、「どれどれ」と応じる山下先生。
京大フィールド科学教育研究センター 舞鶴水産実験所にて

若き日、
漁船でのアルバイトも
経験した

遡れば大学3年生のとき、「勉強だけでいいのか」と思い至り、休学して漁船に乗り込んだという逸話の持ち主です。若き山下先生は、漁船の乗組員として働き、バイト料もちゃんともらったそうです。160日近くも漁船に乗ったもので、魚を獲りすぎて当時から大好きだった釣りへの熱も一旦冷めたんだとか。再燃したのは30歳を過ぎてから。以来ずっと、小さな川での渓流釣りに夢中です。最近は研究を兼ねてのスズキ釣りで、こちらはビギナー。渓流釣りのベテランも、スズキを狙うような広く大きな川では、「どこでどう釣っていいかわからない」のだそうで、「若い人に教えてもらいながら、まだ下手なんだけど楽しいですよ」と目を輝かせます。

ふたりで取材に臨んだ私たちの山下先生の第一印象は、「ベテランの役者さんのよう」で一致。
舞台でお見かけしそうな雰囲気をお持ちだと思った次第。

釣り好きが高じて魚の研究者になったという方は少なくないと、前編でも述べました。山下先生はまさにその一人。川や海での釣りは、文字通り自然の中に身を置いて行うことゆえ、自然環境の変化も感じ取りやすいのでしょうか。魚が減っていくことへの危機感が、研究への情熱の源泉になったようです。「魚が暮らせないような環境であってはならないですよね」と。それはもちろん、魚だけの問題に向けられた言葉ではなく、私たちを取り巻く、それこそ、森、里、海の健やかさにつながるものです。人間とて、自然界からの恵み抜きには、命をつなぐことすらむずかしいのですから。

「人間によるどのような土地の利用が、魚の数に影響をおよぼしているのかを科学的に明らかにしたいと思ってきました。科学を踏まえて、どうしたら共存できるのかを考えるのです。僕の集大成とも言える研究では、日本中の河川を対象に、環境DNAの手法を用いて絶滅危惧種の生息を確認した上で、流域の森林、田んぼ、畑、都市、ゴルフ場などの面積を調べ、流域の人口や河川の護岸率、水質などと併せて見ていきました。そのような流域と河口域のデータを集めて解析することで、河口域の生物多様性に最も良い影響を与えているのが森林であると実証できたんですね。森林率が高いほど、レッドリスト(絶滅が危惧される野生種のリスト)に掲載されている魚類が保全されていると」。(参照

スズキ釣りはビギナーだから、
若い人が先生だよ。

科学は大事。
「人類のために、
サイエンスを使ってほしい」

確かに、森が豊かだと海、人間にとっては水産資源も豊かになるという話は見聞きすることが多いです。そこについて山下先生、「SDGsに示されているように、近年、環境問題の認識とそれへの対応が共有される動きが進んだのは喜ばしいですね。ただ、例えば、いま触れた豊かな森が豊かな海を育むという言説の科学的証明は、実はこれまでなかったんです。こうした、通説として定着しているようなものであっても、信頼に足るエビデンスが存在しない説を事実とみなすことは科学の見地からありえません。ですから、これをきちんと科学的に証明するのが僕らの役割です」。

またまた釣りの話に戻りますが、釣り人の間では常識のように語られているらしい「スズキは餌となる落ち鮎を追いかけて、川に遡上して来る」も、科学的証明が待たれます。まさに今回の、山下先生をプロジェクトリーダーとする調査です。山下先生も、「そういうことは、実はたくさんあります。海や川のことでも、釣り人や漁師さんの中には、経験から身を持って知っている人というのが確かにいるんです。実際に正しいことも多い。それでも、データを収集するなどし、仮説を裏づけることができてはじめて、そうである、と言えるというのが僕らの立場。それがサイエンス。そして、新型コロナ感染症の例が象徴するように、サイエンスなしでは人間の活動は成り立ちません」。本当ですね。感覚値やそれに基づいたいろんな人の話が、参考になることももちろんありますが、それだけを根拠に重要な判断はできないということを、最も身につまされる形で実感させたのはコロナでした。科学は大事です。

2020年3月に退官された山下先生、プロジェクトリーダーであるスズキの調査も2022年に終了予定です。その先は、「世の中の役立つことはし続けたいですよ。一方で、世界中で釣りをしたいという思いもありまして、体力が落ちて遊べなくならないうちに実行したいです。どっちも、楽しんでやりたいですね」とのことです。後進に対しての思いを伺うと、こうおっしゃいました。「人類のために、サイエンスを使ってほしい。研究にも、いつか世の中に役立つとの気概を持って励んでほしいです」

川で魚がジャンプする、
この理由も科学的には
未解明って知ってました?

日本を代表する研究者たちにも、
魚一匹捕まえられるか否かで一喜一憂する日がある!

取材を終えて

今回、何人ものみなさんにお会いして、「研究者って、つまりは究極の、そして最強のオタクだ」と確認するに至りました。「釣り好きが高じて」なんてさらっとおっしゃいますが、高じてプロの研究者ってすごすぎます。しかも日本の最高峰なのですから、もう、みなさんがすごいのか釣りがすごいのかもわからなくなります。川に出れば大先生も学生さんも同じ条件で、釣り上げた人が賞賛されるフェアな精神も素敵でした。それから、こっちのほうが重要な、もうひとつの気づき。それは、私たちはあらゆるところで、科学の恩恵を受けているということです。ありがたさに気づきづらくなっているそれを、山下先生のお話に、気づかされました。「人類のためのサイエンス」は、未来への希望ですね。(取材・文:みつばち社小林奈穂子)