| 初代平田市郎がそれまで提灯の絹と製粉用絹網の兼売を止め、水車小屋の製粉工場の絹網商を専業として創業しました。 北部九州一帯をくまなく、約1ヶ月単位行商して廻り、後の代のために川沿いに点在するお客様の位置を行商日記『水車巡路道詳細覧圖』に書き記しています。 随分と働き者だったようで、お正月の二日目から山越えして行商に出掛けています。 現在の事務所はこの当時建てたものですが未だに健在です。 |
| 二代目田中三次郎は嫁のジュンが篩絹業という家業と一緒に嫁いで来たため、荒物業から篩絹屋に転職する羽目になりました。 実にのんびりした人で、 約40キロ離れた製粉工場に自転車で配達に行き、日が暮れるのも忘れて将棋を指して夕方アタフタと帰っていったとの話です。 |
| 三代目直記は一年中、日本全国にダイレクトメールを送り、自転車や列車は効率が悪いとオートバイ(単車)で行商を始め、大成功しました。 家が一軒買えるくらい高価なオートバイでしたが、道も舗装道路ではなかったせいか、山の中で故障したりチェーンが切れたり、今では考えられないような苦労も多かったそうです。 随分とシマリ屋さんで「無駄」が嫌いな性格でした。 |
| 直記が終戦の年に腹膜炎を起こし急逝しましたため、小学校の教員だった妻秀子が学校を退職 して家業を継ぎ、全国を行商しました。 気の強い女性で「前を見て進め。振り向くな!」が哲学でした。 |
| ネット以外にも色々の開発商品を頼まれることが多く、ポリカーボネートタンク等ヒット商品が生まれました。 |
| 当時国内の篩絹メーカーは1社のみ、外国製はモノダーだけでしたが、取引先製粉会社社長の助言で製粉用篩網では世界の主流になりつつあったSWISS
SILK THAL(SST)社製「NYTAL(ニッタル)」の輸入販売を開始しました。 当時は殆どが国内取引でしたがSST社副社長のアドバイスをきっかけとして当社は急速に世界に目を向け始めました。 |
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